ドキュメンタリーは嘘をつく

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オウム心理教を題材にした『A』『A2』、佐村河内守を題材にした『FAKE』などの作品の監督である森達也氏によりドキュメンタリーについてのエッセイ

先日長男の咳が止まらず呼吸が苦しそうだったので、夜間救急の病院に連れていった。私には子供が三人いる。本を読むのはトイレの中だったり、ドライヤーをかけながらだったり、ページを開いて読み始めて数行で「ママ〜」と呼ばれてページを閉じることばかりだ。病院は三連休の最後の日でとても混んでいた。私は長男を膝に寝かせ、この本のページを開いた。救急車で運ばれてくる人、子供と両親、老いた親と中年の娘、忙しそうな看護師。今、この病院でドキュメンタリーを撮るとしたら私はどこにカメラを向けるだろうか。病室か、待合室か、看護師の休憩所か。子供が喘息気味とのことで吸入をしていると、病室の脇にある小部屋に一人の中年男性がやってきた。かったるそうだが、病人という感じでもない。その人は持っていたカバンを置くと看護師に「何番ー?」と聞いた。看護師は「二番ですー」と答える。夜間救急の医者は色んな病院からの持ち回りだから、10分でちょうど22時だ。その時間から勤務開始なのだろう。その医者が開けたロッカーには上からL,M,Sとラベルが貼ってあり、白衣が重ねられ入れてあった。白衣は医者個人で持っているのかと思っていたので意外だった。白衣を選ぶ間もその医者は仕事をするのが心底嫌そうだった。まぁ夜も遅いし、家でゆっくりしたいのだろう。この医者が勤務を始めてから帰宅するまでをカメラに収めるのもいいかもしれない。ちょうど勤務が終わって外に出ると朝焼けの時間帯だし、この病院は海沿いで景色が美しい。

『映像はすべて作為の産物だ。ストレートニュースで紹介される10秒間の悲惨な交通事故の現場でも、道路脇に供えられた花から撮るか、傍らを疾走するトラックから撮るかで、映像の印象はまったく変わる。これを決めるのは撮る側の主観なのだ。』

『映像の作為を象徴する手法にインサートという技術がある。AとBとが対面して話し込んでいいるシーンで、Aの話に相槌を打つBの表情がパン(横移動)ではなく画面にカットインの形で挿入(インサート)されたなら、それは実は、実際とは違う時間軸の映像なのだと思ってまず間違いはない。ドキュメンタリーの現場で、複数のキャメラが回っていることなどめったにない。キャメラが互いに映りこむことはとりあえずのタブーだし、何よりも(テレビも含めて)日本のドキュメンタリー現場に、そんな潤沢な予算は許されていない』

私たちは目の前の映像が嘘偽りのないものだから感動するのだろうか。私自身のことで言えば、大人になればなっただけ、『本物』でないと感動できなくなってきた。10代の頃であれば、それが作り話であってもそうでなくても関係なく泣けていた。それがいつの頃からかこの物語は実話に基づいているという説明が、泣くためには必要になった。そして映画を観終わった後に、その映画の実話となる話がどんなものだったのか調べてみる。大抵はかなりの脚色がある。私はこの時点で騙されたような、感情を弄ばれたような妙な感覚になる。作為的でない、感動する映像、そうなるともうホームビデオしかないんじゃないだろうか。私が自分のiphoneで撮った映像であれば、そこに編集はないし、何月何日の何時の映像か分かる。真実だけを追い求めるのであれば、自分の生活だけで充分だ。他人の悲劇も、言葉も、喜びも必要ない。私はなんのために今日もドキュメンタリーを見ようと思うのだろうか。

ドキュメンタリーは嘘をつく

価格¥230

順位620,026位

森 達也

発行草思社

発売日2005年3月1日

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のんちゃん

Posted By のんちゃん

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